「新蕎麦は物も言わぬに人が増え」
江戸ツ子は無類の蕎麦好きだ。新蕎麦の時季になると、宣伝もしないの蕎麦の香りに吸い寄せられるように、店の前へ行列が出来る、と言った句だ。江戸初期、精進料理の珍味として供せられていた「蕎麦切り」が、庶民食の代表となったのは、江戸も半ば、安永年間のこと。蕎麦切りとは、今われわれが思う蕎麦の姿で製麺された、あの、するするっとたぐるやつだ。
上方の麦切り(うどん)を真似、蕎麦粉に、つなぎを入れ平たくのして切ったので「蕎麦切り」。
それまで蕎麦と言えば、蕎麦の実の殻を絆いたものを、そのまま炊いたり「ぞうすい」や「かゆ」にしたか、蕎麦粉を熱湯でこねて生醤油で食べる「そばがき」か、それを「すいとん」か「ほうとう」のように具だくさんの汁で煮込むかが一般的な蕎麦の調理法だった。かつて蕎麦は、米の代用品、飢誰の際の「救荒作物」であり、蕎麦好き、蕎麦通、などという言葉自体が存在しない、ネクラでシビアな素材だった。それが時代が下り、食生活にゆとり幅が生まれた江戸半ばに蕎麦切りが普及しはじめ、五穀の外の雑穀・蕎麦は、やっと表舞台の光明を得た。
ところで、赤穂の義士たちが討ち入り前に、蕎麦で腹ごしらえをしたと伝えられたのが元禄の頃、江戸にはまだ、そんな大勢を収容できる蕎麦切りの専門店はなかったので、たぶん不可能だったろうと思われる。
蕎麦は日本海側と中部以東の山間地で多く栽培されそれぞれ地方色豊かな蕎麦文化が育まれたが、中でも特異なスタイルを確立したのが江戸前蕎麦だ。
江戸の蕎麦は第一に「もり」。しかもその量が極端に少ない。五寸のセイロに麺の輪を六つ盛る。それは、ハエがくぐれるほどの隙間があり、一山(一箸分)三、四本。六箸で一枚食い終える勘定だが、なんの、ぐるつと箸を掻き回せば一枚一口だ。それを麺の下三分の一つゆに顔を見せて(どっぷりとつけてはいけない。江戸前のつゆは辛いのだ)、ツ、ツーとすすり込む。ズルズル・モグモグはご法度。ツ、ツーとほとんど噛まずに蕎麦の香りと、喉ごしを楽しまなくてはならない。
白米が豊富にあった江戸だからこそ蕎麦は主食ではなく、趣味食として独自の進化を遂げた。
江戸の蕎毒は、いわばタバコやコーヒーなどと同じ嗜好品の扱いで、蕎麦は手軽な食事ではなく、都市のリフレッシュ・一タイムの、オシャレな小道具として機能し、蕎麦屋は大人の止まり木、口一ンドンのパブの役割をしたのだった。
スタイリッシュな江戸蕎麦は大人気を博し、人口百万だった江戸の街に、たちまち四千店もの蕎麦屋が出来た。
しかも、これは店舗登録されているものに限るので、かつぎ屋台の「風鈴蕎麦屋」は無数だろう。現在、人口千二百万の東京にある蕎麦屋は、たった五千店だそうだから、当時の江戸ツ子がいかに蕎麦好きだったかがわかる。(杉浦日向子 大江戸美味草紙より)
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