今でも東京では、転居の挨拶に隣近所へ「そば」を配る「引っ越しそば」と呼ぶ習慣がある。「おソバにめえりやした。以後、ひとつ細く長く」とのシャレという。幕末、百二十万人を抱えた世界一の大都会江戸には約四千店のソバ屋があったといわれる。その他、屋号のない小さな店や、屋台は無数とみられる。現在の東京の人□は、その十倍以上だから、江戸並ならそば屋は四万店あるわけだが、実際は六千店あまりという。グルメ情報の氾濫する昨今は、時ならぬ行列を店にもたらす。ソバ屋もその例外ではない。行列とは、そばを食いに来たのではなく、情報を食いに来たのである。「そば屋なんてもなあ、ちょいとそこいらにあるからソバ屋てんで、手間アかけた遠方にあるんならトオイ屋じゃねえか。」住居、職場の近く、あるいは出先のついでに立ち寄る、いわゆるいきつけの店を大切にしたい。スゴイ店をたくさん知っているよりも、いきつけの店をいくつか確保していることが、憩いの極意である。スゴイ店へ、わざわざ行くのもたまにはいいが、かならず行列をはずして、憩い度数を味わいたい。とどのつまりは、いいそば屋のソバに住むことが一番のぜいたくだろう。(杉浦日向子著より抜粋)
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