「更科」
『蕎麦全書』によれば、「甲州屋さらしなそば」と「斧屋更級そば」が載っている。
麻布永坂町に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」が店を構えたのは、それより後のことでこの「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」こそ、現在の「更科」の総本家である。
ここの屋号は後にのれん分けされたお店でも、「布屋○○」と称している。
ここの蕎麦は太兵衛の領主であった信州の保科家との関係で大名屋敷に出入りし、その当時から高級なそば屋としての地位を確立していたようです。
特に四代目の時に将軍家御用達となったことから、以後は「御前そば」の名前も使われるようになった。これは上品な一番粉を使用し、真っ白なそば=さらしなそばを確立する。
明治以降「麻布永坂更科」は家の名前であった堀井を冠し「更科堀井」と称している。
明治時代には「御前そば」を改良し、皇室を始め華族の邸宅へも出前を届けるようになる。
各地に「更科」と称する店が増えたのもこのころである。こんな伝統を誇る名店も昭和16年に廃業してしまう。創業の血を引く堀井家八代目が「総本家更科堀井」の看板を掲げるのは昭和59年になってからである。「更科」がのれん分けして発展するのは明治以降のことで、築地の「さらしなの里」が明治32年。明治35年には「有楽町更科」が開店している。ここもやはり屋号は「布屋(源三郎)」。「有楽町更科」の流れを継いでいるのが「布恒更科」。屋号は「布屋恒次郎」。昭和38年に現在の大井で店を開いている。「更科」一門は変わりそばが有名である。さらしなに季節の食材等を練り込むのだから、それなりの技をもっており受け継がれている。
参考資料/蕎麦年代記、蕎麦の世界、蕎麦辞典より抜粋
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