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そろそろ雪が降る季節なのに、いまごろカマキリがいるなんて。ウッドデッキの手すりにじっと動かず時を過ごしておりました。全世界で2,000種前後るいるそうです。カマキリといえばメスがオスを共食いと連想しますが実際は、あまり見られないようです。ただし、秋が深まって捕食昆虫が少なくなると他の個体も重要な餌となってくる。真冬に孵化することもあるようです。写真をクリックすると大きくなります。
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10月度、藪忠の売行きベストテンは以下の通りです。
1.エビかき揚げそば750円(かき揚げのボリュームでビックリ)
2.もりそば550円(ほろみのりの味をじっくり堪能)
3.ランチ700円(日替わりで出血サービス、数量限定)
4.鴨南せいろ1000円(滝川の合鴨が旨い)
5.エビ天そば1050円(大きなエビがど~んと2本)
6.天ざる1200円(大きなエビ2本の他に4品付きます)
7.かしわそば750円(注文が入ってから鶏肉を炒めるので旨い)
8.ざるそば600円(刻み海苔をタップリのせました)
9.辛味大根おろし650円(つゆに入れずにそばにのせて食べてください)
10.トロロそば700円(旬の長イモの甘味が旨い)
藪そば
全国には「やぶ」を名乗るそば屋がたくさんある。
「藪御三家」と呼ばれているのは東京の神田「やぶ」、並木藪蕎麦、池之端藪蕎麦の3店を称してといる。このうち神田やぶそばを本家として「藪睦会」なる暖簾会を組織している。
神田やぶそばの起こりは「団子坂藪蕎麦」というお店を明治13年に堀田七兵衛が譲り受けたことから始まるが、この名称も俗称で本当は「蔦屋」というのが正式な屋号だった。団子坂のあたりは竹「やぶ」が多かったので、いつしか「やぶそば」となった。明治の頃の「やぶそば」はとても広い敷地を有し、1600坪もあったとの事。だから前庭には崖や滝が配置されていたという。ところが、「団子坂藪蕎麦」は明治39年に突然廃業。このとき「藪蕎麦」の看板を受け継いだのが「神田やぶそば」。大正12年の関東大震災の折りにはお店は消失したものの、同年中に(ということは9月1日の震災後、3ヶ月で)再建。現存する建物もこのときのもの。
「並木藪蕎麦」は堀田七兵衛の三男・勝三が京橋にのれん分けをして始めたお店で大正2年に浅草の現在地に移転。並木の由来は当時の地名が「浅草並木町」だったことによる。
池之端藪蕎麦は「池之端藪蕎麦」は勝三の三男・鶴雄が昭和29年に開業したお店。
祖父=神田やぶそば、父=並木藪蕎麦、子=池之端藪蕎麦という関係になります。
参考資料/蕎麦年代記、蕎麦の世界、蕎麦辞典
参考資料/蕎麦年代記、蕎麦の世界、蕎麦辞典より抜粋
「更科」
『蕎麦全書』によれば、「甲州屋さらしなそば」と「斧屋更級そば」が載っている。
麻布永坂町に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」が店を構えたのは、それより後のことでこの「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」こそ、現在の「更科」の総本家である。
ここの屋号は後にのれん分けされたお店でも、「布屋○○」と称している。
ここの蕎麦は太兵衛の領主であった信州の保科家との関係で大名屋敷に出入りし、その当時から高級なそば屋としての地位を確立していたようです。
特に四代目の時に将軍家御用達となったことから、以後は「御前そば」の名前も使われるようになった。これは上品な一番粉を使用し、真っ白なそば=さらしなそばを確立する。
明治以降「麻布永坂更科」は家の名前であった堀井を冠し「更科堀井」と称している。
明治時代には「御前そば」を改良し、皇室を始め華族の邸宅へも出前を届けるようになる。
各地に「更科」と称する店が増えたのもこのころである。こんな伝統を誇る名店も昭和16年に廃業してしまう。創業の血を引く堀井家八代目が「総本家更科堀井」の看板を掲げるのは昭和59年になってからである。「更科」がのれん分けして発展するのは明治以降のことで、築地の「さらしなの里」が明治32年。明治35年には「有楽町更科」が開店している。ここもやはり屋号は「布屋(源三郎)」。「有楽町更科」の流れを継いでいるのが「布恒更科」。屋号は「布屋恒次郎」。昭和38年に現在の大井で店を開いている。「更科」一門は変わりそばが有名である。さらしなに季節の食材等を練り込むのだから、それなりの技をもっており受け継がれている。
参考資料/蕎麦年代記、蕎麦の世界、蕎麦辞典より抜粋
「砂場」
日本最古の麺類店発祥の地の石碑があるのは大阪市西区新町南公園。
「ここに砂場ありき」と刻まれているという。意外な感じがするが、東京ではなく大阪にあるのである。「砂場」は江戸(東京)のそば屋ではなく大坂(大阪)なのである。
砂場でも有名な「虎ノ門砂場」の正式な屋号も「大坂屋」。大坂起源を裏付けるものに、 1757年発行の資料では当時の大坂新町は江戸の吉原、京都の島原と並んで有名な遊郭があったところで、そこに「砂場」が登場する。当時そのあたりは大阪城築城の際に資材置き場としたところで、地元の人たちが自然と「砂場」と呼んでいたようです。
具体的には「和泉屋」と「津国屋」という2店があったのだそうだが、これが「砂場」の起源との事です。
1751年刊行の『蕎麦全書』には大和屋というお店が「大坂砂場そば」として紹介されています。
『江戸名物 酒飯手引草』には砂場と名乗るそば屋が6軒掲載され、そのうち現在まで続いているのは、「糀町七丁目砂場藤吉(現・南千住砂場)」。
慶応年間にここからのれん分けして独立したのが「室町砂場」。
ここもやはり関東大震災で被災し、町名変更で「室町」を名乗っている。
ここは「天もり」=ざるそばを考案した店として有名た゜が、明治に入り西久保巴町に町名変更され、それ以降「巴町砂場」として今に至っている。
参考資料/蕎麦年代記、蕎麦の世界、蕎麦辞典より抜粋